大連霞小&第13回生の軌跡Ⅱ

純ちゃんの少年時代の回顧録



回顧録


純ちゃんは1934年の生まれ。紀元は二千六百年の奉祝の年(昭和15年4月)、
大連霞尋常小学校へ入学、翌、昭和16年には、明治以来の小学校制度がなくなり、
霞国民学校と改められた。


因みに、新一年生時の小学国語読本は、通称「サクラ読本」と云われ、
冒頭のページが「サイタ サイタ サクラガサイタ 」で始まり、
初めてのカラー印刷されたシャレタ読本の紙面であった。

「一億一心」の掛け声の下、国民は太平洋戦争へと駆り立てられて行った。
同年12月には,太平洋戦争が勃発、「欲しがりません勝つまでは」、
「撃ちてし止まむ」の大号令の下、軍国少年に対する教練等が始まり、
戦意昂揚が煽られた。

日本軍は、東南アジア各地を占領したが、昭和17年以降は、
アメリカの反攻により形勢が逆転、日本の敗色が濃くなった。
やがて、沖縄戦、「盟邦」ナチスドイツの降伏、広島、長崎への原爆投下、
そして敗戦。

昭和20年 8月15日、初めてラジオから流れる天皇の肉声は、
雑音と難解な言葉でよく聞き取れなかった。
どうやら敗戦だと判った時、ひよっとしたら日本人は皆殺しにされるかも知れないと、
子供心に大変なショックを覚えた。往時巷間では、日本人は皆殺しにされる
などと言うデマが流れていたことも事実である。

昭和20年 8月には、ソ連が参戦、ソ満国境から侵攻を開始した。
8月下旬には、大連にソ連軍戦車部隊の第一陣が怒涛の勢いで進攻して来た。
砲身の長いT34型、T80型戦車?初めて見る鉛色の巨大な戦車の威容と轟音、
キャタピラが地鳴りをあげて我が家の前、電車軌道のアスファルトを
粉砕しながら驀進して来た。
車上には、金髪丸刈りで、赤鬼然とした面構えで毛深く、
マンドリン型の自動小銃を構えて、辺りをへいげいしていた。
それは子供心に異様な恐怖心を与えたこと、当時少年だった私の脳裏には、
強烈に今でもはっきり刻み込まれている。
以後、邦人らはソ連兵士のことを「ロスケ」と呼び、内心では蔑視していた。


それからは、毎日のように怖ーい!無頼漢部隊のソ連軍が無統制とも言うべき暴行、
略奪を始め、加えて中国人の暴動、略奪が頻発、大連市中は混乱し、
無政府状態の中、治安不安定が続いた。

侵入してきた殆どのソ連兵士は時計を持っていなかった。
中には、腕時計を見たことがないのか?「ダワーイ(よこせ) チャスイ(時計)」
「チャスイ ニエット」と叫んでは腕時計を強引に取り上げ、
略奪した腕時計を両腕にいくつもつけて、誇らしげに見せびらかしていた
ソ連兵の姿が、子供心に妙に滑稽だった。

後日談によると、ソ連兵による腕時計強奪事件に対して日本人らも時計対策を考えた。
当時、安物の時計は沢山あり、日本品やウォルサムなど安価な物があったので、
これを2~3個用意して置き、ソ連兵が脅しに来るとこれを渡して、
その間に家の女性達を裏から隣家に逃そうと言う算段をとった。

また、ソ連兵は初めて腕時計を持つと、力一杯ネジを巻くために、
その加減が判らずゼンマイをねじ切って仕舞い、ネジが切れて役に立たなくなった時計は、
それを無造作にポイと路上に捨てていたやに仄聞していた。

敗戦を境にして、これまでの支配者が被支配者に急転落下、
陸の孤島と化した大連の邦人は祖国日本から完全に遺棄されたのであった。
邦人達の必死の生存作戦が始まった。
大連には満州各地から着のみ着のままの邦人達が続々避難して来た。
我が家にも旅順から、元警察官の留守家族が難を逃れて転がり込んで来た。

特に食料危機は深刻で、高騰する物価、生活苦に邦人達は自力で生活を維持する方策を
考えねばならなかった。身辺の衣類等あらゆる物を露天市場に持ち込んでは、
(竹の子生活)二束三文で中国人に買い叩かれながら、全て食糧に替える耐乏生活が続いた。

食料難は益々深刻になり、食べ物と云えば、赤黒くて不味い高粱(こうりゃん)飯や、
塩味だけの高粱粥、トウモロコシの粥等で、おかずなど勿論無く、
辛うじて食べられる悲惨な日々であつたが、食べ物があるだけでも幸せであった。

この頃だったろうか?街角に「日本人の子供買います」の張り紙がしてあり、
実際に子供の売り買いがなされたという話を聞かされ時は、
体が凍てつき本当にショックでした。
我が兄妹三人も、あるいは残留孤児となっていたかも知れなかったことを思うと、
当時、両親の必死の生き残りのための苦労は、並大抵のことではなかったと想起している。

敗戦の翌年、1946年(昭和21年)3月、混乱の最中、曲がりなりにもどうにか、
本校最後となる正式な卒業式(長瀬 薫校長)を想い出深い講堂で迎えることができ、
無事霞国民学校を卒業した。

そして、大連中学に進学することになるのだが・・・



褒状&通知表


・昭和十七年度通知表(表)・大連霞国民学校
 校長 高野運太郎
 担任 影本 薫
 児童 初等科第三学年一組 純一郎


・昭和十七年度通知表(裏・見開き分・B・5判、上質厚紙を使用)
 昔の純ちゃん秀才?今の純ちゃん半呆け老人?
 さ~て、皆さんは通知表をお持ちかな?



・賞 状(A5判、上質の賞状用紙を使用)
 大連霞国民学校初等科第四学年 純一郎
 特選 右者大連市内国民学校児童習字練成大会ニ於イテ頭書ノ成績ヲ得タリヨッテ茲ニ之ヲ賞ス
 昭和十八年八月一日
 大連市初等教育会長 別宮秀夫
 (別宮秀夫氏は、昭和14年4月に官選大連市長に就任、終戦当時も市長を勤め、大連最後の市長となった)


・褒 状(A5判、上質の賞状用紙を使用)
 二年 純一郎
 右者第九回大連児童生徒書初展覧会ニ出品シ其ノ成績優秀ナリヨツテ之ヲ褒ス
 昭和十七年一月三十日
 大連市初等教育会長 別宮秀夫
(別宮秀夫氏は、昭和14年4月に官選大連市長に就任、終戦当時も市長を勤め、大連最後の市長となった)


・第二ニ五ニ号
 修了 証書(B4判、ざらがみで紙質の粗悪なもの)
 大分県 純一郎 昭和九年一月   日生
 国民学校初等科ノ課程ヲ修了セシコトヲ証ス
 昭和二十一年三月二十日
 大連霞国民学校長 従七位 勲七等 長瀬 薫

往時全ての賞状は、どういうわけか?ひらがなではなくカタカナで書かれていますね。何故でしょうか?


・賞 状(上質紙の賞状用紙で、当時よく入手できたなぁー?と思われる程の紙質を使用)
 純一郎
 右者学業優秀ナリヨッテ茲に之ヲ賞ス
 昭和二十一年三月二十日
 大連霞国民学校長 長瀬 薫

 往時全ての賞状は、どういうわけか?ひらがなではなく、カタカナで書かれています。何故でしょうか?


・第四学年一組 純一郎
 第二学期間 級長ヲ命ス゛
 昭和十八年八月二十六日
 大連霞国民学校


・辞 令(B5判、半罫紙)
 第六学年一組 純一郎
 右ノ者第三学期 級長ヲ命ズ
 昭和二十一年一月十四日
 大連霞国民学校長


写真集


・大連中学1学年在学時のクラス写真
 (昭和21年頃・大連中学校舎が接収されたため、移転先の下藤小学校玄関前で)
 級友藤田重幸君(東京在住)が提供してくれた貴重な写真である。


・大連霞国民学校 第13回生卒業式の写真
 昭和21年 3月20日撮影 霞小・校庭
 校長 長瀬 薫 
 担任 水野谷 茂行 先生


・大連霞国民学校 3年 1組
 校長 高野 運太郎
 担任 影本 薫 先生


・大連霞国民学校 2年 1組
 校長 小林 徳次郎
 担任 西本 力蔵 先生


・大連霞尋常小学校入学式の写真(昭和15年 4月入学)
 校長 小野 安人
 担任 和田 志津男 先生


■大連霞小学校・先生方の皆さん(昭和30年頃東京にて・後藤先生写真提供)

・前列左から、関口武先生・横山静徳先生・白井利夫先生
 後列左から、永田武光先生・矢木博先生・原口利子先生・能川茂子先生


・霞小六学年担任の水野谷茂行先生


・左から永田先生・原口先生・高野先生・小賀先生・水野谷先生


・左から水野谷先生・渡部先生・白井先生



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